なんで人は、いまだに自分ではどうにもできないような
闇の感覚や、罪の意識や、孤独感で苦しむのだろう?
それはずっと古代から人類が手放せずに持ち続けてきた感覚や意識だったはず。
その原因は、一体どこにあるのだろう?
その人が育った環境や成長の過程での体験なのだろうか?
それとも先祖代々から受け継がれてきた遺伝的な影響なのだろうか?
はたまた、生まれ変わりがあるとすると前世で体験したことの因果(カルマ)なのだろうか?
そして極め付けは、人間が神に創造された直後から持っている「原罪」という捉え方になる。
ここまで挙げた原因について、どれが正解で不正解という話をするつもりはない。
どれも有るかもしれないし、無いかもしれないし、人それぞれかもしれない。
その上で、もしもの話として、上記に挙げたような原因がすべてクリアされたらどうなるだろう?
単純に考えたら、人間が闇、罪、孤独に苛まれる原因がすべてなくなるのだから嬉しいことになる。
ここでせっかくだから、もう少しそれをリアルに踏み込んで考えてみよう。
まずは上記に挙げた原因のほとんどは
自分の外の環境だったり、他者だったり、過去の自分だったり、神だったり
そう。つまりどれもこれも、「今の自分」が原因ではないということ!
そもそも「原因」というもの自体が、過去にしか探せないものだし
さらに言ってしまえば、闇はvs光と、罪はvs許しや救いと、孤独はvs一体感や共存と、どれも対をなしてしか存在しないもの。
だからその対極にあるものを求めているからこそ、闇や罪や孤独に苛まれ続ける、という二元性の虜になってるとも言えるもの。
そこで話を戻してまとめに入ると
もしも、人間が感じる「闇、罪、孤独」の原因が本当にすべて取り除かれたとしたら?
その時には。もうそれを自分の外にも、他者にも、過去のせいにすることも
できなくなった、いまここにいる「自分」という存在は、一体どういう生き方を選択するのか?
という問いが強烈に突きつけられ、かつその答えは個々人の完全なる自由意志だけに委ねられることになる。
簡単に言えば、生まれる前から用意されていたかのような「原罪」という設定が外れてしまった時に
もうそれを理由や言い訳にしたりできないところで、何を選択するのか?
いままでの当たり前のように、そこに闇があるから光を求めるのでも、そこに罪があるから救いや許しを求めるのでも、そこに孤独があるから一体感や共存を求めるのでもなくなった時に、、
自分は一体なにを求めて生きるのか?なにを信じて生きるのか?そして、死んでいくのか?
に対する答えが個々に問われることになるということ。
最後に、改めて預言的なことを書くと
今年の年末の12月8日に、これまでの「自分らしさ」を追求する時代が終わり
「神との共同創造の時代」が始まり、その日を境に人類が古から縛られてきた
「原罪」がついに取り除かれどんどん「無原罪」になっていくとのこと。
(この日は聖母マリアの「無原罪の御宿り」の日でもある)
もしそれが本当なら、人類史上かつてない喜び祝うような大転機であると同時に、
ここまで書いたように、いよいよ「個々人」の最終選択が迫られる段階に入る。
つまりそれが長い間いい伝えられてきた人類の最終ステージを象徴する「最後の審判」のことだったというのがオチ。
そんな話は、もはや言葉だけで伝えることが難しい段階に入ってきたので、どうなるのかと思いきや、それがそのまま歌になりました♬
そしてずっと書けなかったブログも、その日まで一月を切りそうないま、ようやく更新できました!
父と子と精霊の無条件の愛のマリアトリニティ♬