そういう時代だからか、、ここが日本だからか、、
教会や神社とか以外のいわゆる一般の場では、誰も神のことを歌ったりはしない。
歌わないだけでなく、公に話したり発信することも、人目を気にせずにはできなかったりする。
それはいつの時代からか?というと、世界史的には18世紀末の「フランス革命」以降から、個人が特定宗教から自由でいるためにも、神が公の場から退けられる「政教分離と世俗化」が進んでいったから。
確かにそれは素晴らしいことでもあって、なぜならそれまでの時代には、個人に信仰の自由はなく、宗教は個人の自由を束縛したり抑圧する封建制度を支えている存在でもあったから。
つまり、自分の外側に絶対的な存在を認め崇めている限りは、個人が自由かつ自己責任で生きることはできなかったし、神に限らずそういう存在から自立する段階が個々人が幸せになるために必要必然だったから。
でもそれからは「神聖な存在」を全て否定することになったのか?というと、それはあくまでも個々人が自由に選択して信仰することもできるし
さらに「神聖な存在」を、もう自分の外にではなく自分の内側にこそ探すべきだという思想が、いまのアンチ宗教的な「自分らしさ志向の精神世界=スピリチュアルムープメント」の源流になってきた。
そこがズレている集団的で画一的な精神世界の探求はカルト化して、排他的や差別的になり反社会的勢力にもなる危険性があるから。
だから、公の場で神について語ったり発信することは「宗教活動」というと特殊カテゴリーに閉じ込めておく方が安全だし、できるならそこに触れたり関わったり依存したりしない生き方のほうが「いいね!」という風潮になっているし
日本でもオウム事件から20年以上たった今でもそれは変わっていない。
長々と書いてきたけれど、その上で、それだからこそ、いまあえて「神について誰も歌わないから歌います♬」
その理由も、言葉だけで説明するより歌にして伝えたいから歌います。
正直、そういう内容を歌にして歌って発信することには、それを言葉だけで説明する以上に強いプレーキがかかります。
きっと、歌というものが頭だけでなく感情や感覚や肉体や魂にまで伝わるものだからこそ、そこに閉ざされ封印された何かがあるからこそ、いまそれを解放して次に進むためにやります。
かつては自分の外にいて、怖れ崇め依存したり抑圧されていた神。
そこから自立して、一人一人の自分自身という存在がそれなんだと気づけた神。
人間が自分の外の神と内の神の両極を経験したその先には、どんな時代があるのか?
世界情勢が緊迫する中で、個人の自由と権利と自分らしさを追求することと、自分や自国の利害を最優先する人間同士の戦いの行末には、どんな世界があるのか?
あと一月もしない12月8日から始まろうとしている新たな時代のために歌ったこの歌を聴いてくれてありがとう。
父と子と精霊の無条件の愛のマリアトリニティ♬