1986年から始まり今年の12月8日で終わる「自分らしさの時代」とは
すなわち「なりたい自分になれた自分&やりたいことがやれた自分=幸せな自分」という価値観が中心にあった時代だ。
これができた人にとっては良い時代だっと言えるし、それが本当に終わってしまうとしたら寂しい限りかもしれない。
でも、見方を変えるとこの価値観は同時に、
「なりたい、やりたいのに出来ない自分=不幸な自分」であり
そもそも「なりたい自分もやりたいこともない自分=不幸以前の無価値な自分」となってしまう価値観でもあると言える。
ここから書くことは仮説レベルでしかないけれど、どうもこの日本においては
「自分らしさの時代」において最も生きづらさを感じていたのは
86年頃からのバブルの波に乗ってなんだかんだ良い思いをしてきた世代とかではなく
ちょうど86年〜2000年代前半ぐらいに生まれたいわゆる「ゆとり世代」と言われる世代ではないだろうか?
まずこの世代をエネルギー的に観ると「自分という個の分離感」が生まれつき強いのが当たり前で、本来ならこの時代において主役となって生きやすい世代のはずだったけど。。
その上で、特に日本人のこの世代が生きづらさを感じてしまう可能性があるとすれば
「生まれもった自然体の自分らしさではなく、親や学校などから押し付けられた「なりたい自分」や「やりたいこと」を追求するのがシンドかった。」
とか
「なりたい自分ややりたいことがあっても、世の中の閉塞感、格差、いじめ、不寛容さによって生きづらくなってしまった。」
とか
「個人主義が未成熟な日本の社会の中では、生まれもった個の分離感の強さは極端な疎外感や孤立感につながり生きづらくなってしまった。」
とかなどが考えられる。
この辺りの理由は画一的には言い切れないものだろうけど、ひとつだけ確かな事実は
この若者世代の自殺率が先進国中で断トツに一番だということ。
やはり日本人の本来の気質からすると、我武者羅に「個」を追求する時代よりも
これから始まる「共同創造の時代」のほうが本領が発揮されるのだと思う。
ただし、この共同創造が人間同士だけの和や協調ということだけではなく
「人間と神」との共同創造ということになると、別の意味で日本人にとって蓋をしたままの
「宗教観や信仰観」に対する条件付けがこのままでは大きな足かせとなってしまうだろう。
本来の日本人には、このテーマにおいて世界をリードしていくという神から与えられた役割を果たすための稀有な資質が備わっているはずだし
それこそ日本人同士なら多くを語らずに共有できる「神さま」という漠然とした存在こそが、実は世界中の宗教が条件づけている神に対して、もっとも「無条件の神」に近い存在なんだ。
だけれど、もしいまの集合意識レベルのままで、世界の人たちに日本人が宗教や信仰や神を語っとしたら、かなり痛々しい結果に終わるだろう。
でもきっと、この領域においても世界レベルで通用するような若者が、これまでの時代の生きづらさを超えて新時代に登場するのでは?と大いに期待しているし、その新時代の主役世代の世界での活躍をサポートすることが、我々のような前座であり繋ぎ世代の責任なんだと思う。
いずれでにしろ、日本人だけでなく世界中の人に、老若何女を問わず、あと三週間ばかしで旧時代の終わりと新しい時代の始まりが訪れようとしている。
父と子と精霊の無条件の愛のマリアトリニティ♬