なんでこうしないんだろう?

なんでこう考えないんだろ?

なんでこう感じないんだろう?

って誰かに対して思ったり言うことあるでしょ。

人から自分がそう思われたり言われることも。

でもそう思われたり言われたりしている本人こそが誰よりもそう思っていたりする。

自分はなんでこうできないんだ!?

自分はなんでこう考えれないんだ!?

自分はなんでこう感じれないんだ!?

って、その方法や出口を探して悩んだりもがいたり

それが続くとだんだんと

それを、できたり考えたり感じれない自分はダメな人間かもしれない。

いや、そんなことはないはずだ。

いくらやってもそうならないんだから仕方がないんだ。

変わりたくても変われないんだから仕方がないんだ。

これがどう思われようと自分なんだ!

そうやってぼくらは「本当に信じれるのは自分だけ」を教義とする自分教の信者になっていった。

だからぼくらは自分以外の存在から、

こうすべき、こう考えるべき、こう感じるべき

を押し付けられることに強いアレルギーを持っている。

なのに、あと1年ばかりで1986年から始まった「自分教」の時代は終わろうとしている。

かといって、その前の時代のような全体主義や権威主義にただ戻るわけではない。

お互いがお互いの価値観を強制しあうこともなく、

自分が周りの人と違うことをあれこれ悩むこともなく

みんなが結束するために批判したり苛める対象を探すこともなく

どこまでも自由に、どこまでも無制限に、どこまでも無条件に、ただ在る。

それを選択し続ける勇気を失くさないでください。

たとえ先がまったく見えなくて、ずっと抜け出せないように見えても、そのプロセスも含めて

自分を超えた存在に導かれていることを

完璧に導かれつつもそれを選択するのか?だけは、完全にぼくらの自由意志に委ねなられていることを忘れないでください。

そのために、それを導きつつ僕らに選択を委ねている存在のことを、その存在の観点に立って観てみてください。

なぜなら僕らとその存在がコラボしてしか作れない本当の

「自由、無制限、無条件」を共同創造する時代があと一年で始まるから。

父と子と精霊の無条件の愛のトリニティ♬